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同苦の感受性と、喜びの純粋性と

S・ヴェーユの『カイエ』を読む

 シモーヌ・ヴェーユの『カイエ』の邦訳(全4巻)が刊行中である。カイエとは雑記帳のこと。20世紀の思想史に至純の光芒を放つヴェーユ(1909−43)の、苦闘に満ちた思索の歩みと精神のダイナミズムが、ここには生き生きと躍動している。
 まず驚くのは彼女の興味と関心の幅広さだ。科学、文学、歴史、そして東西の宗教など、まことに縦横無尽というほかない。それらを媒介にしながら、しかし彼女の思索のすべては、人類の不幸の転換の方途を人間自身の生命のなかに(信仰を通して)探る──という一点に向けられていく。
 不幸と悲惨の形象として十字架のキリストがある。いまわの際に彼が発した「わが神よ、なぜ私を見捨てられるのか」との叫び、この「なぜ」こそは不幸な人間が一様に発する声だ。不幸に磔にされた存在としてみるとき、神の子もすべての人間も等しく同じ、とヴェーユはみる。
 しかしながら、人間は不幸を嫌う。悲惨なものは、醜悪ゆえに目をそらす。その結果、「悲惨な人々の憎しみは、自分と同類の人々のほうへと向か」い、「自己の外に苦しみをまき散らそうとする衝動」のままに、もっぱら悪と不幸の伝播に荷担する。現在の民族紛争などの問題も、まさに”悲惨なものはその同類を憎む”という構図である。
 いかにして、この構図を打ち破るか。不幸への嫌悪、あらゆる嫌悪を、ほかならぬ自己へと向けることによって、とヴェーユはいう。なぜなら「悪の源は同一のものではないにしても、自分の内なる悪の源泉に類似している」のだから。苦痛と恐怖を他の何ものにも転嫁せず、あるがままに自己の内面に受け入れること……。これは至難だ。彼女は、悪と不幸の根源を執拗に問い続ける。みずから望んで痛み、引き裂かれようとする。
 不幸をあるがままに、ただ存在するという理由において、人類の普遍的な悲惨の現れとして愛すること、この超越的な愛こそが信仰である、と彼女はいう。十字架とは「天秤」(=正義)の形象でもあるが、それは悲惨な者の方に魂を傾けることによって正義なのだ。ヴェーユの思想と生涯にみる、不幸への傾斜の激しさは、善への希求のひたむきさにほかならない。
 人類の悲惨を自己の内的経験として味わうことは、苦痛を伴わずにおかない。しかし逆に、みずからの苦痛を通して人類の普遍的な悲惨を知ることは、自己の生を他者の生とつなげ、世界のなかに解き放つことでもある。生をそのまま、深い喜びのうちによみがえらせることでもあるのだ。そのためには魂は虚飾を脱ぎ捨てねばならない。
 「純粋な同苦・共苦によって、いよいよ純粋なよろこびを享受できる」「他人の不幸を、自分もそれに苦しみながら受け入れること」。
 かつてヴェーユの最後の論文「根をもつこと」(第二次大戦中、ロンドンの亡命政府のもとで作成した、解放後のフランスの再編成計画)を読んだときの、不思議な感動を想い起こす。読み手の心の底に沸き上がるときめき、希望のたしかな手触り……。ひとりの女性がその生涯を賭して、不幸の意味を問い、その”価値”を発見したとき、彼女は国家と人類が宿命の軛(くびき)から脱出する方途をおのずと見いだした、ということのように思う。
 十字架のキリストのように、不幸に磔けられたまま死ぬことを願い、しかもどんな慰めも求めようとしなかったヴェーユの、痛ましい限りの生、悲惨と不幸のただなかに魂をさらしつづけた生は、しかし、自分が喜びを感じようと苦しみを感じようと、世界は絶対に善であるという確信を手放さなかったその”宗教的なるもの”の脈動する心によって、ひたすらに純粋な喜びの光を放っているように感じられる。

(1993年執筆)
『カイエ』全4巻 みすず書房


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